小論-05

「業民」から「市民」へ
1997年4月10日

「業民」から「市民」へ

1997年1月8日の朝日新聞で展開された、自民党中曽根元総理と民主党鳩山代表の庶民対市民論争を受け、 西岡朗氏は朝日新聞2月19日付論壇欄において、作家中野孝治氏のいう「自制、努力、倹約、責柱をとる、けじめをつける」 など日本人の美徳を手掛かりに、庶民=政治力や伝統に対する「従順」、市民=自立と連帯からなる「主体性の確立」 に整理した上で、庶民の安定志向に応えた保守の長期政権と、市民派の徳目軽視や革新派の分派体質を見据え、 庶民も市民の一員とする鳩山氏より、両者を対立関係で捉える中曽根氏に、軍配を上げている。 しかし、①中曽根氏の言説を前提にしているため庶民概念が矮小化され、本来備わっているポテンシャルや多義的な広がりが、十分考慮されていない、②心美徳や伝統の尊重を謳いながら、結果的に「ディセンシー(品位)」を失なわざるをえない、日本型保守政治の自己矛盾に言及していないなどの点から賛成しかねる。
先ず中曽根氏の市民・庶民観を要約すると、市民=観念的で血の通わない山の手のインテリ、庶民=市民より下にあり生きるのに精一杯な下町の魚屋さんや八百屋さんということになり、自民党は政治の基底をなす後者を守る、という。しかし、こうした上・下や地域差などの言葉と裏腹なイデオロギー的認識は、もう古くて狭い。というのは、高度成長期あたりからは、氏のいう庶民も、経済的にゆとりができて中流意識が芽生えており、その上、①自民党が公約に反して消費税を強行に導入した時、彼らは大いに異議を申し立てて反旗を翻したし、②もしも彼らの生活領域に、産業廃棄物やゴミの処理場、原発や軍事基地など、我が身と家族の生活や健康に不安な施設計画が突然持ち上がったリ、周辺で何らかの事故が起きたら、商店のおじさんやおばさんたちは、最初はエゴから始まるにしても、反対の署名活動やデモをするうちに、やがては氏が進歩的なイデオロギー集団と懸念する市民に、変化する可能性もあるからだ。そこで、保守党は庶民が市民に変身しないように、①消費税問題では、消費者を置き去りにしたまま、店側に「益税」というお土産を付けたり、②歓迎されない施設については、なるべく大都市から離れた地域や過疎地、例えば、沖縄や青森、瀬戸内海の豊島や岐阜の山奥に隠したり、迷惑施設受け入れの代償に、地元振興費と称して大量の税金を投入したり、アメとムチを使い分けるのに腐心する。言葉による説得ではなく、カネで解決する姿勢は、当然人の心を貧しくするはずだ。
ところで保守党は、戦後五十五年体制の下で政・官・業一体に政策を進め、選挙対策にもフルに活用した。鉄の三角形の一角ナショナルブランドの業界を頂点とするピラミッドの、中間にある自治体レベルの各種団体や協会を通じて、末端でこれを支える大勢の人々、彼らこそ、町の大工さんや魚屋さんたちであり、業界の利益、ひいては自らの実利と引替に、後援会組織の選挙マシーンとして一票を投じ、長期保守体制を支えてきた業界の民、即ち、「業民」と呼ぶに相応しい。最初は、農協や漁協の利害調整や予算配分を通して農・漁民たちを、高度成長期からは公共事業や補助金の割当によって、土木・建設業者や中小企業の商・工店主らを利益誘導で囲い込み、「庶民の業民化」を図ってきた。
こうしてみると、大きな富や力のないフツーの庶民一人ひとりの中に、①個人の責任ある自立を求め、世間の様々な課題を自らに引き寄せて行動するパブリックな「市民」の立場、②日々の経営に勤しむ時の金銭欲やエゴに満ちた「業民」としての生き様、さらに、③それらのしがらみから開放され、自由でプライベートな「私民」の振舞い、など多様な要素が同居しており、時と場合に応じて、それぞれの顔をのぞかせる。中曽根氏がいうのは、庶民が持つ大きな可能性の中の②の部分に過ぎない。
戦後日本人は、保守党の経済政策を後押しして物質的に豊かになつたものの、業民の顔が大きくなり過ぎ、中野氏や西岡氏を嘆かせる美徳や品位を失わせたのではないだろうか。
それは、当の中曽根氏が得意にした民活導入のバブル期に、大手開発・不動産業者による地上げやリゾート開発により、本来保守派が誇るべき下町の伝統や共同体、日本独特の風土や風景がずたずたにされたことからも明らかであり、幾多の構造汚職や今年度予算編成における族議員の暗躍などと相俟って、自民党が伝統や秩序を守るより、「利権保守」を優先する党であることを証明した。それゆえ、政権が長続きすればするほどディセンシーを失うという「パラドックス」に陥っている。西岡氏は、近年の体制側の退廃を嘆いておられるが、それは日本型保守システムの必然であり、庶民は、「従順」に信じてきた力に裏切られたといえよう。
このように、保守党による庶民の業民化政策は明らかに破綻しており、これからは過剰な主体性確立に拘らず、緩やかに連帯・共生する市民による「非利権型リベラル」の時代が予感される。
1997年4月10日
付記 
この7月の参院選挙では、「令和山本組」が一陣の「風」を巻き起こした。この勢力をポピュリズムとみるか、いや新しいムーヴメントとみるか、分れる。格差社会が際立ち、不寛容かつ批判力の欠如甚だしい昨今、ボクはエスタブリッシュメントへの反旗だと思う。
FM放送のある情報番組で、思想家東浩紀氏はその「令和」をポビュリズムと断じた。今や東氏は言論界のエスタブリッシュメントと化したからだろう。メディア業界では例えば「朝日新聞」や「TBS」、政党では「立憲」や「国民民主」もエスタブリツシュメントなのだ(前米大統領選における民主党候補も同様)。それらに属さない切り捨てられた人々の叫びが「令和」のエネルギーになっている(米サンダース議員の存在)。しかしそれを自覚すれば、既存リベラルとの共闘は可能だろう。
既成政党も既得権益を活用する政治「業界」に見える。雷論・メディア「業界」しかり。「業界」に奉仕する業界の民=「業民」は。エスタブリツシュメントに違いない。格差社会を象徽し、主に都心3区(日本の中の異国)で生活するIT長者たち(異邦人?)もIT「業民」である。果たして彼らは個を回復してIT「市民」になれるだろうか。あえて90年代の小論を再録した次第。
2019年9月11日
【小論−03】